古代インドの仏教の始祖ブッダが仏教を説いてから紀元前後くらいまでの仏教のことを初期仏教と呼ぶ。初期仏教では、ブッダの創始したヴィパッサナー瞑想が説かれている。ヴィパッサナー瞑想には、広義の意味と狭義の意味があり、広義の意味では煩悩を減らし、心を浄らかにしていく清浄道を指す。狭義の意味では、歩く瞑想や食べる瞑想、座って行う瞑想など、瞑想そのものを指す。広義の意味でのヴィパッサナー瞑想は「サティ(気づき)の修行」と「心の反応系の修行」に分けられる。ここでは「サティ(気づき)の修行」と「心の反応系の修行」について述べてみたい。それにはまず、人間の認知のプロセスについて説明する必要がある。
初期仏教における認知のプロセス
対象→六門→識→触→受→想→尋→行
対象…認識の対象
六門…五感と、思考やイメージなどの対象を捕らえる感覚器官(があると初期仏教では教えている)。
識…認識
触…対象と六門と識が触れる。
受…感受作用。楽受(心地よい刺激に対する感受作用)と苦受(不快な刺激に対する感受作用)と不苦不楽受(快でも不快でもない刺激に対する感受作用)の3つに分類される。
想…対象に対して、脳が記憶と照合して対象がなんであるかを概念化する。例えば、カラスの子を聴いたら、記憶と照合して、「カラスの声」であると概念を想起する。
尋…対象に対して意識をフォーカスし、対象がなんであるかを捕らえる。例えば、カラスの声が聞こえたら、カラスの方に目を向ける、など。
行…反応。対象に対する反応。例えば、カラスを見て、近くにいたら、警戒するなど。
「対象→六門→識→触→受」までは外界からの入力系である。「受」の後の「想→尋→行」は出力系である。心地よい刺激に対して楽受が起こると、「欲」で反応し、もっともっとと欲しがるのが人間である。反対に苦受に対しては、「嫌悪」で反応し、避けようとする。ジークムント・フロイトの快楽原則でもそう言っている。この反応を断ち切るのがサティ(気づき)である。
サティ(気づき)の修行
苦受に対して嫌悪で反応した場合の例を挙げよう。音(対象)が耳(六門)に触れ、不快な感覚(苦受)が生じる。脳が「これはシャカシャカうるさい音漏れだ」と概念化(想)し、意識が隣の人のイヤホンに強く向く(尋)。その結果、「うるさいな、マナーが悪いな」とイライラする(行=嫌悪の反応)。次に苦受に対してサティ(気づき)を入れた場合の例を挙げる。「音漏れだ(想)」と認識した瞬間に、「音が聞こえている」「不快な感覚(苦受)が生じている」と客観的にサティ(気づき)を入れる。 すると、意識が隣の人へ向かう(尋)前に連鎖がスッと切れ、「ただ不快な音がそこにあるだけ」という事実に留めることができる。結果として、イライラという「行(嫌悪)」は発生しない。このようにサティを入れると、「後続切断効果」が発生する。これは、「想」と「尋」の間でサティが入った場合の例であるが、ヴィパッサナー瞑想の達人は、受と想の間でサティが入るらしい。
歩く瞑想では、足裏の感覚に間断なくサティを入れ続ける。足裏の感覚に気づき続ける。歩く瞑想はサティの修行である。
心の反応系の修行
人間には、反応パターン、反応のプログラムがある。DNAレベルで書き込まれた反応のプログラムもあれば、後天的に生きているうちに刻み込まれた反応のプログラムもある。それを正しい反応のプログラムに書き換える修行が「心の反応系の修行」である。私が伝えているジャーナリング(書く瞑想)はこの心の反応系の修行に分類される。ジャーナリングによって、無自覚に行っている思考がノートに書き出されることで、思考を可視化し、思考の癖、反応パターン、反応のプログラムを明らかにすることができる。ジャーナリングで無意識の意識化が起こることで、無意識に反応していた反応パターンが明らかになる。明らかになった悪しき反応パターンを手放す。書き換える。例えば、辛く悲しいことがあり、ネガティブなことばかりに意識がフォーカスしている思考をしている人がいたとしよう。ネガティブなものばかりに意識をフォーカスしてしまう思考の癖を持っている。この人がジャーナリングで、自分の持っている良いもの、感謝したいものを書き出すことで、自分では気づかなかった自分の持っている良いものに気づく。気づき、自分の持っている良いものに意識をフォーカスする。視野が広がるのである。心は明るくなる。心の反応パターンが変わったのである。ネガティブなものばかりに意識をフォーカスしてしまう思考の癖が頑固で強力ならば、ポジティブなものに目が向けられるようジャーナリングでポジティブなものを書き出す習慣をつけると良いだろう。今日あった良いこと、感謝したいことをテーマにジャーナリングを行うのである。これを習慣にする。