ジャーナリングとは、いわゆる「書く瞑想」とも称され、自己の内的思考を紙葉に記述して可視化し、それを再読することで客観的な観察を可能ならしめる技法である。本実践は、「気づき」「無意識の意識化」、ならびに「自己理解の深化」をもたらす。
思考を文字化
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思考を可視化
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思考を客観視
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自己理解の深まり
実践の端緒として、まずは筆記具と帳面を準備する。脳裏に去来する思考を、ただひたすらに記述し続けるのである。この際、筆を執る手を決して停滞させてはならない。仮に如何なる思考も生起しなければ、「何も浮かばない」というその事実そのものを記述する。一定時間の記述を経たのち、そのテクストを再読する。記述に要する時間は任意であり、計時器(タイマー)を用いることも推奨される。導入期においては、ひとまず4分程度の実践から試みるのが至当である。
思考を文字へと還元することでそれは可視化され、再読という行為を通じて客観視が達成される。その結果として自己と思考との間に適度な距離が創出され、自己を対象化することが可能となる。無意識下に作動している思考もまた記述されるがゆえに、自己が認識し得なかった認知の偏重(思考の癖)が露わとなり、自己理解はより一層の深まりを見せるのである。
【主題を設定した実践技法】
ジャーナリングにおいては、特定の主題を設定して行うアプローチも存在する。例えば、「感謝の対象」を主題と定めた場合、感謝すべき事象をひたすらに列挙していく。衣食住の確保、重要他者の存在、労働の歓びなどである。これらを記述し終えたのち、やはり再読を行う。
記述された思考を再読する過程において、自己の思考や情動を客観視することが可能となる。このように、自らの思考・情動を俯瞰的かつ客観的に認知する働きを「メタ認知」と定義する。
人間は往々にして自らの思考に捕捉される。過ぎ去りし不快な過去の事象を反芻しては苦悶し、あるいは未だ生起せぬ未来の事象をさも現実であるかのように危惧し、苦悩する。しかし、メタ認知が機能することによって、思考と自己との間に絶対的な距離が生じ、思考に捕捉された状態からの離脱がもたらされる。この過程は「脱同一化」と呼称される。
記述された思考の再読は、思考への埋没を防ぎ、一歩退いた視座から自己の内的プロセスを鳥瞰することを可能ならしめるのである。
本実践を通じて、平常時は意識下に潜伏している無意識的思考もまた表出する。その思考を客観視することは、自己の認知の偏重(思考の癖)を自覚する契機となる。
筆者自身もまた、自己を責め立てる自己批判的な思考が露呈し、それを明確に自覚した経験を持つ。すなわち「無意識の意識化」である。無意識領域の情念や感情、思考を認識下に置く現象を「無意識の意識化」と言う。ジャーナリングでは、筆を止めずに記述し続けることで、理性的思考が介入する余地を剥奪する。理性の検閲機能が低下することで、この「無意識の意識化」は極めて生起しやすくなるのである。筆者は自己批判的思考を自覚した刹那、その思考を即座に放棄し、自己受容へと至ることができた。
自己の情動を記述することは、精神の浄化をもたらす。これは「カタルシス効果」と称され、内なる悲哀や苦悩を外部へと言語化し放出することで、精神的負荷が軽減される現象である。
前述の「感謝の対象を挙げる」という主題に基づく実践を例に取れば、「衣食住の確保」「当日の夕食の美味」「好む労働への従事」といった事象に至るまで、感謝の対象が列挙される。結果として、平素は看過されがちな恩恵に対しても意識が指向し、感謝の念が醸成されるのである。
精神が混沌(もやもや)とする状況において、その正体が不可知であることも少なくない。ジャーナリングによってこの混沌を記述することで、それは明確な輪郭を獲得する。言語化というプロセスを経ることで、その実態が白日の下に晒されるのである。
また、脳内で無秩序に散乱した思考を紙上に記述することは、論理の体系化と思考の整理を大いに促進する。
ジャーナリングの効果
- 自己客観視(メタ認知)
- 思考と自分との間に距離が生まれる(脱同一化)
- 思考整理
- 気持ちがスッキリする(カタルシス効果)
- 心のもやもやの解消
- 無意識の意識化
- 思考の癖、思い込みに気づく
- 自己受容が深まる
- 感謝の気持ちが育まれる