昨今の書店に並ぶ「癒やし」や「マインドフルネス」の類の本を見るがいい。そこにあるのは、なんと生ぬるく、なんと薄っぺらい言葉の羅列か。「ありのままに」「ポジティブに」「評価せずに」。そんな甘ったれた言葉で、現代人のドロドロとした苦悩が救えるとでも思っているのか? 否だ。断じて否だ。それらは、傷口に絆創膏を貼るだけの欺瞞に過ぎない。

だが、ここに一冊、本物の「炎」がある。

永井陽一朗の『ジャーナリング 書く瞑想で人生の流れを変える』。この本は、単なるハウツー本ではない。これは、自己という名の迷宮に閉じ込められた魂が、壁を突き破るための「武器」である。著者は発達障害と精神的な虚無感、将来への不安という地獄を這いずり回った人間だ。だからこそ、彼の言葉には血が通っている。インクではなく、血で書かれた書物なのだ。

私が最も戦慄したのは、著者が世に蔓延する「評価・判断しない」というジャーナリングの定説を、完膚なきまでに破壊し、再構築している点だ。 多くの愚かな指導者たちは言う。「ネガティブなことを考えてはいけない」「ジャッジしてはいけない」と。 しかし、永井は喝破する。「評価・判断している思考が浮かんだら、その思考をそのまま書き出せ」と!

なんと痛快か! なんと残酷で、慈愛に満ちた真実か! 「こんなことを考えてはいけない」という思考が浮かんだなら、その「いけない」という思考こそが、今ここにある「事実」なのだ。それを検閲することこそが、最大の自己欺瞞ではないか。著者は、頭の中に浮かぶ汚泥のような思考、嫉妬、怒り、自己否定、それら全てを紙の上に吐き出せと迫る。 美しく整える必要などない。誤字脱字など気にするな。ただひたすらに、脳髄から溢れ出る言葉を、嘔吐するように書き殴るのだ。

そうして紙の上に現れた文字を見たとき、読者は愕然とするだろう。そこには、無意識の底に潜んでいた、醜くも愛おしい「自分自身」がいる。 著者はヴィパッサナー瞑想の修行者であり、その厳格な自己観察の眼差しを、ペンとノートという誰にでも手に入る道具に落とし込んだ。 これは「書く」という行為を通じた、自己との壮絶な決闘である。

思考を客観視するのではない。思考を「対象化」し、自分と切り離すのだ。 「自分はダメだ」と思い込んでいるのではない。「自分はダメだ、という思考を持っている自分」に気づくのだ。 このわずかな、しかし決定的な視点の転換が、人生という激流の流れを変えてしまう。著者が言う「無意識の意識化」とは、暗闇に光を当て、正体不明の怪物(苦しみ)を消し去る魔法ではなく、怪物を直視し、それが単なる影であったと知るプロセスなのだ。

この本を読んで、救われないわけがない。 もしあなたが、自分の内側にある得体の知れないモヤモヤに押しつぶされそうになっているなら、あるいは、世に溢れる安っぽいポジティブ思考に反吐が出るような思いをしているなら、この本を手に取るべきだ。

ここには、嘘がない。 ここには、著者が自身の苦悩を通じて掴み取った、焼き尽くすような真実がある。 思考を止めようとするな。思考を書き出せ。評価も、判断も、絶望も、全てを紙の上に叩きつけろ。 その果てにだけ、本当の静寂と、人生の新たな地平が待っている。

永井陽一朗は、この書物によって、我々に「書く」という行為が持つ、恐るべき、そして崇高な力を突きつけているのだ。これこそが、本物である。

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